2010年09月13日

西堀一三さんの言葉 1

第一部は「花道家のコトバから学ぶ」というタイトルで50回書いてきました。
第二部は「花をいける人たちの言葉」というタイトルで始めます。きっと、花をいける人以外の言葉も書くことになると思います。

第一回目は西堀一三(にしぼりいちぞう)さんの言葉からです。

花は、春ともなれば咲き、秋ともなれば実が成る。その素直な行いを改めません。この性情と共に眼に見ても麗しい花は、人間の世のあらゆる苦をも明るく救うものでありましょう。

ただ、何気なく挿されていて、気取ったところが何もないようでありながら心が惹かれます。
童心的な心持ちのままに、本当に子供らしい気持ちで生けた花もまた面白いものです。

(『新版 茶花の話』淡交社 より引用要約)

・花は、人間の世のあらゆる苦をも明るく救う。
・子供らしい童心的な心持ちで生けた花もまた面白い。


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2010年08月29日

第一部終了

「花の力」「花の器」「型について」など、テーマを設けて花道家の言葉を紹介してきました。
これを第一部としてこのあたりで終了します。

第2部は、花道家を「花をいける人たち」と改め、一人一人の言葉を集めて紹介していきます。
ひとりひとりの個性に触れることができることと期待します。

「個性」をどう考えるのかということは、じぶんのかご作りの深い部分に関わることです。
そして、それは解決できていません。解決していないということは、仕事に対する姿勢がはっきりしていないということです。
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2010年08月23日

個性 2

主観が積極的に作用しているのは、小さく個性的な作品を生み出す。一見して、没個性的に見えるであろう作品においてこそ、大きな個性が生かされる、と考える。
(『思考の整理学』外山滋比古)


何となく気になり、ノートにメモをしておいた言葉です。

いけばなは、自然の表現であるとともに、自己の芸術であり、詩であり、歌であると思います、なにげない花の姿にも、大きな何ものかがひそんでいるのでしょう。
(『花のこころ』山本静山)


自然に添おうとするとき、個性が表れてくるのだという気もしてきます。外山さんの「大きな個性」と山本さんの「大きな何ものか」は同じ源を感じます。

個性とは、その人という鏡に写されているものかもしれません。
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2010年08月02日

個性 1

「なげいれ」は自由度が高い分だけ、その人の個性が出るようです。個性のない人はいないわけですが、それを表すことや、よりすばらしく表すことは難しい気がします。表れているものが“個性”なのかとなると、もうわかりません。

個性というものはやたらに自己を主張することもなく、自己を押しつけることでもありません。(中略)互いに一歩退いて譲り合う関係の中に、調和という真の個性が生きてくるという自己表現もあるのです。
(『花 一輪を百輪のごとく』岡田わ)

ものを生かすには、互いに一歩退いて、譲り合うことが、大切であろう。そうすることによって、はじめて真の自己表現ができる。
(『花日記』白洲正子)
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2010年07月05日

なげいれ 5

なげいれは型から解き放たれた「自由な花」花に習い、器に習い、場に習う。
―すべてがあなたの師匠である。

なげいれは私の花。私の心と会話しあんがらいける花。
たったひとつの花に心模様や自然観を託していける。

なげいれは、「答えのない花」
(『花に習う』川瀬敏郎)
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2010年06月28日

なげいれ 4

創始者(岡田茂吉)のいけられた花は「草の花」です。大自然と調和させ、四季折々に移り変わる人間の心でいける心の花です。ここには型はありません。花材も花器も何の制約もありません。自分の創意と感性しか頼るものがありません。自分がありのまま出ていき、飾っても隠しても、現れるものは自然と現れます。「草の花」は「投げ入れ花」ということになります。
(『自然の花と人生』中野隆昭)


なげいれは、僕にとって相性のいい世界だと感じます。自由な感じがいいですね。自由と言っても、場や器、草木は必要ですね。水も必要ですし、ハサミもあったほうがいいですよね。これ、僕にとっては「ほどほどの制約です」
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2010年06月21日

なげいれ 3

投げ入れ
手の中で合わせ、心を定めて挿す。
―これが投げ入れの基本。
型の対極にあるのが投げ入れ。
私の花もすべて投げ入れです。
思う花をすべて手の中で合わせて、
心が定まったときに枝を落とし、
そして、そのまま花入れに。
(『花の教科書』栗崎昇)



こんなふうに花を入れられたらいいなと思います。手元にある切り花を、手の中で合わせて、花入れに入れるのですけれど、手をはなすと、花が「クルッ」と回ってしまったり、「バラッ」と広がってしまったり皆さんはしませんか。
ラベル:投げ入れ
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2010年06月14日

なげいれ 2

川瀬敏郎著『花は野にあるように』の中に「なげいれ十か条」が書かれています。タイトルのいくつかを書き出してみます。

1.なげいれの原点は茶花

2.なげいれとは“個性流”の花

3.なげいれとは“偉大なる素人の花”

4.なげいれは生活の美学

6.なげいれとは季節をクローズアップした花

8.なげいれとは見る人に心の原風景を思い起こされる花

9.なげいれとは軽さを身上とした花


2番と4番について前回、このブログでも紹介しました。川瀬さんの教えるなげいれは、自分と向き合い、花と向き合い、創意工夫を重ね、その人にしか出来ない花を入れること言えるのでしょうか。生活の中で、この終りのない行為を続けることが、なげいれの精神ということでしょうか。

気楽に、楽しく、ですね。
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2010年05月31日

なげいれ 1

なげいれとは個性流の花
なげいれにはいけばなのような型や流派はありません。あくまで“個性流”の花。その人の生き方や感性を素直に草木に託し、個人の宇宙を表現することを目的とした花です。
(『花は野にあるように』川瀬敏郎)


川瀬さんはなげいれは型や約束事のない花と書いておられますが、個性流と勝手流と混同してはいけない、とも書いておられます。きっと僕の花は勝手流の範疇です、ね。

なげいれは生活の美学
なげいれとは、どこまでも生活の中の用の美を貫いた花。花の芸術性や造形性を追求するのではなく、生活の中に生かされてこそなげいれです。
(『花は野にあるように』川瀬敏郎)


この考え方は、工房の花かご作りの考え方と同じ方向を向いています。
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2010年05月17日

「稽古・習う」 2

かご作りに関しては、1年間学校に通い、3年人の下で修業をしたと前回書きました。

最高齢の鮨職人、小野二郎さんの言葉にこんなものがあります。

「この世界に入って親方や先輩から手取り足取り教えてもらったなんて
経験はただの一度もない」


まさに見習い修業ですね。僕の場合はもう少し教えていただいたという感じはあります。

白洲正子さんや栗崎fさんの本を読んでいますと、花のいけ方は習ったことがないと書かれてあります。人のいけているところを見て習うということもなかったのでしょうか。経験を積みながら自由にいけるということですね。僕も花は習ったことがありませんが、このままいこうかなと思います。
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2010年05月10日

「稽古・習う」 1

華道家の言葉、今回から「けいこ」がテーマです。
本当はこのテーマ、避けて通りたいのですが…。けいこはニガ手です。子どもの頃、学校や授業がニガ手だった経験の影響が今も残っているようです。

「けいこ」とは、教えられ、学んだことを練習し、身につけること。習うこと。と辞書にはあります。「習う」は「慣う」と同源とも書いてあります。「慣う」とは、たびたび、経験して馴れる。習慣になる。慣れ親しむjこと。とあります。

「けいこ」には、厳しく、辛いイメージがありますが、「慣う」には気が付いたら身についていたという気楽さがありますね。僕はこちらが好きです。

かご作りは、学校へ1年間通い、3年間人の下で修業をさせてもらいました。1年目は教えられっぱなし。次の3年間は見て習う、その後は、自分で考えて慣う。
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2010年05月03日

「型」について 4

「型」を持たないいけ花もあります。
広山流の岡田広山さんの言葉です。

広山流のいけばなは、形をもたない自由な花ですから、いつ、どこで、どんな器にどういけてもいいのです。その場に出会ったときのインスピレーションが花にも表れれば、いっそよいのではと思っております。


この言葉だけですと、とても気軽ないけばなの印象ですけれど、岡田さんは、植物の本当の美しさを知ること、生態を知ることが大事だとおっしゃっています。

山村御流初代家元 山本静山さんの言葉です。

自然を基とする私どもの花には、他の流儀のように定められた形はありません。自然をよく観察し、木の張りによる枝のとらえ方以外には、何もありません。「不立文字(ふりゅうもんじ)※」とは禅家の教えです。


※不立文字―悟りは文字、言説をもって伝えることが、できず、心から心へ伝えるものであるの意


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2010年04月12日

「型」について 3

自然主義の花だけを本当の花であると思う人はすでに心がとらわれています。むしろ、いけ花は自然に背を向けて、いけ花の規則そのものに従うところに自然の中に見つけ出せない別の美しさや深さという自然を超えた崇高美にまで、到達することができるのです。


花道家、岡田わさんの言葉です。
いけ花を習ったことのない僕にも、自然の中に見つけ出せない、別の美しさがあることはわかります。しかし、「自然を超えた崇高美」となると遠すぎて見えなくなってしまいます。

嵯峨御流の辻井博州さんの言葉です。

素材をいかすためには、自然をよく観察し、自然体でいける。なおかつその中に、様式を踏まえていく。そうでないと作品としての感動がないのではないか。

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2010年04月05日

「型」について 2

日本の文化は「型」の文化である、と先回書きました。
脚本家の早坂暁さんもこんなことをおっしゃっています。

世界中どこでも、きれいな花を身近に置きたいという気持ちはある。でも、それを文化的に高めるというか、生ける、形をつくるということを考えるのが日本人です。

「型」とは、伝統、習慣として決まった形式と広辞苑にはあります。
日本人は形式や様式といったものに還元する能力が高いのでしょうか。
身に付けておいた方がよさそうです。


こんな言葉もあります。最高齢の鮨職人、小野二郎さんの言葉です。

肩や首は凝らないし、腰にも来ない。動作の「型」が決まっているから、力むことがないんですよ。
(読売新聞「時代の証言者」2008年5月)より
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2010年03月15日

「型」について 1

日本の文化は、「型」の文化なのだそうです。山月研究会の中野隆明さんはそうおっしゃっています。

型をよく守って、と言われると窮屈な感じがして逃げ出したくなってしまいますけれど、型を一つ一つ身に付けていく素直さも必要なのでしょうね。

中野さんの言葉です。

弱いものは弱いなりに、一生懸命に正しく生きていくことができるのは、型を守っているからなのです。強い人間には「型」はいりません。しかし、天才でない99%の人間には型の助けが必要です。

「型」は人間の哲学や技術から生まれた「美の規範」と考えれば決して難しいものではありません。

と言っても、「型」は永遠不変のものではありませんし、いけばなの最終目標ではありません。
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2010年02月22日

花と芸術について 13

「おのおのが性質の違うものを一つにいけるのは、非常にむずかしいことです。『共有する空間で、互いが響き合い、緊密な関係をもち、調和し、和やかに生きていく』こと。これこそがいけばなの真髄なのです」
(『花とこころ一日一話』池坊専永)


いけばなの話かなと思ったのですが、人間関係のお話…いや、やはり、いけばなの真髄のお話です。

「いけばなが表わそうとしているのは、きれいな花の形ではなく、草や木が持つ姿勢の内面に蓄えられている動き―生長を続けるけようとする草木の意志です」
(『花とこころ一日一話』池坊専永)


  
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2010年01月25日

花と芸術について 12

「雑草」

どんな荒地にも
逞しく
生の営みを繰り返す
生きる姿のその中に
日本の美、わびとさびが生まれる

何げない雑草にも
我々と手をつなぐとき
そこに詩が生まれ
美が生まれ
価値が生まれる
自然をそこなうことなく
理解と愛情を持ち
よかれと願うこと
それ自体が雑草いけばなとなる」
(『季寄せ―雑草いけばな』飯尾一渓)


いけばなは飯尾さんのような花から、假屋崎さんや前野博紀さんのような花まで幅広いですね。いけばなはまさに、前回のように「思想」です。

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2010年01月17日

花と芸術について 11

「一日かぎりのはかない命であるから、咲き定まって器に入れたらその瞬間が『花』なのだ。では自然のままで眺めたらいいだろうにと思うのは美を解さぬものの言で、自然の花が美しいのはあたりまえのことだが、人間が関わることによってそれは一つの『思想』となる」
(『花日記』白州正子)


花をいけることは「思想」を表現することであるということです。そもそも「芸術」という言葉自体がよくわかりませんね。

明鏡国語辞典によりますと、
「芸術」とは、人間が心に感じたことや思想などを、さまざまな方法・様式によって鑑賞の対象となる美的な作品として創り出すこと。またその作品。とあります。

芸術は思想を美的作品にすること。
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2010年01月04日

花と芸術について 10

新年明けましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いします。

「ただ無造作に取り合わせといっても、どんな組み合わせでもいいというわけではありません。花を生けるときの生命というべきものは、この取り合わせなのですから。花と花器と場所と、この三つが調和していれば、自然とその作品も、りっぱなものになるでしょう。この調和というべきものは、華道のみではなく、すべての芸術に、同じことがいえるでしょう」
(『花のこころ』山本静山)


詩はバランスである、と言った詩人がいます。山本静山さんはいけばなは調和であるとおっしゃっていますね。僕は花を一枝入れることで満足しています。
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2009年12月21日

花と芸術について 9

「お花を習いはじめたとき、いけばなには、品と性と美の三つがととなわなくてはいけません。品とは気品ある花であり、性とは花のあるがままの姿を生かすことであり、美は調和の美しさであるから、この
三つがよくそなわっていなくてはいけません、と教えられました」
(『花のこころ』山本静山)


人間性と花の性の調和がいけばなということですね。僕の場合はとりあえず、花を入れるということで満足しています。
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