2009年12月07日

花と芸術について 8

「大学の講義で右の耳から左の耳へ通り過ぎていったたくさんの言葉の中で、シラーの『理性と感性の間には美が存在する』は、私にとって大切。どういうことかというと、こうしたいと思う感性や発想とそれを形にして伝える理性的な行為や技術の両方がなくては表現することはできないということ。これは造形に限ったことではなくて、花をいける時も、話をするのも、料理だってみんなそう。桔梗の花の、この表情が好きと思っても、その表情にいけるためには留めることができなくては伝わらない。思った通りに伝えられるかが問題なので、言葉と同じ。」
(『一花一葉』工藤亜美


たしかにものをつくったり、表現したりするということはそういうことですね。


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2009年11月30日

花と芸術について 7

「これなんです、花って。どの線を残すか、という―。西洋のフラワーアレンジメントは足し算。油絵のように重ねていくものだとしたら、日本の花は引き算です。その人にとっていちばん美しい線を残す。そこに活ける人の心が表れてくるのだと思います。」
(『花の教科書』マガジンハウス)


栗崎昇さんの言葉です。
足し算が西洋的で引き算が日本的と言う対比ですね。かご作りをする人たちの中にも足し算的な人と引き算的な人はいます。

※今後の予定
現在「花と芸術」というテーマで花道家の方々の言葉を紹介しています。もうしばらく「花と芸術」が続きます。その後、「個性」「けいこ」「型」「なげいれ」というテーマを予定しています。

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2009年11月16日

花と芸術について 6

「日本のいけ花は、芸術などという摩訶不思議な怪しげなものではなく、普遍的な自然確認の作務です」

「花は<心の開放>のために生けることを忘れてはなりません」

「対局する<花の心美>と<造詣の美>を担補させながら、一人一流派―個性の回復はなされていくのです。これは、本来の植物的民族にたち返り、生活に根ざした日常芸術化現象でもあります」
(『花 一輪を百輪のごとく』岡田わ著 KKロングセラーズ)

岡田わさんの言葉です。
岡田さんの言葉から、宮沢賢治さんの『農民芸術概論綱要』を連想しました。こんな言葉があります。

「ここには多くの開放された天才がある個性の異なる幾億の天才も併び立つべく斯して地面も天となる」

心が開放され、個性の回復がなされていくと、個性の異なる幾億の天才があらわれ、やがて地面も天となる、ということになりますね。
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2009年11月09日

花と芸術について 5

「芸術における美は、実(じつ)の姿だけではなく、虚の姿勢がはいってこそ、真(まこと)の美しさがあらわれる。事実だけが美ではないのである。いけばなでは<虚実等分>という。私のコレクションの貴重な花器に花をいける。技術をいれて、技術をみせない。そこにさりげなさが生まれる。真の芸のみせどころでもある。」
(『花語り』主婦の友社)


辻井博州さんの言葉です。
<虚実等分>という言葉があるのですね。かご作りをしていても、このことはわかるような気がします。
ラベル:辻井博州
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2009年11月02日

花と芸術について 4

「この国の美意識の根幹は、真・行・草でいえば<草>にあり、しかも草こそが<真>であることを宣言したのが千利休の侘び茶だと思います。野に咲く一輪の野菊が床の間に迎えられ、器とともに飾られることで神聖なものになる。どんな名もなき花にこ神が宿ることを思いだしたのが、侘び茶の湯の花のもたらした革命です」
(『別冊太陽 四季の花手帖2』)


川瀬敏郎さんの言葉ですが、前回の雑草いけばなにも通じますね。飯尾一渓さんの美しい言葉があります。

「何げない雑草にも
我々と手をつなぐとき
そこに詩が生まれ
美が生まれ
価値が生まれる
自然をそこなうことなく
理解と愛情を持ち
よかれと願うこと
それ自体が雑草いけばなとなる」
(『季寄せ―雑草いけばな』講談社)
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2009年10月19日

花と芸術について 3

「日本人の美意識は秋の野に
<花野>という言葉を贈った
百花乱れ咲く春の野にではなく
野の草がひっそり花をつける秋に
そこには外(ほか)にない華やぎがある」
(『季寄せ−雑草いけばな』講談社)


雑草いけばなを提唱されている飯尾一渓さんの言葉です。美しい言葉ですね。半分はわかる気がしますけれど、半分はなぜ春の野ではなく秋の野を<花野>と呼ぶのだろうと、不思議な気がします。

「この国では寂しさだけが、いつも新鮮である」という金子光晴さんの言葉を連想させます。ひっそりとした寂しさに美しさや新鮮さを感じる感性が、本来日本人にはあるということです。
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2009年10月12日

花と芸術について 2

「<瓶史>から私が学んだのは、生け花は一種の総合芸術であることだった。花は花だけで孤立するものではなく、周囲の環境と生活の中にとけこんで、はじめて生きるという意味である」
(『花』白州正子著より)


「ものを生かすには互いに一歩退いて譲り合うことが大切なのであろう。そうすることによって、はじめて真の表現ができる。総合芸術のおもしろさといおうか、花と器の関係には、人間同士の付き合いによく似たものがあると思う」
(『花日記』白州正子著 世界文化社)
ラベル:白州正子 花器
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2009年09月28日

花と芸術について 1

芸術の秋と言われます。今回から「芸術」をテーマに花道家のコトバを紹介します。

「自然を、人間をも含む大きな生命として見詰めてきた日本の民族が捜し求めてきた美や芸術は、自由という個を主張し、貫くことではなく、自然と一体になろうとする祈りに始まっていましょう。それは個をなくすことではなく、より大きく生かすこと、人間存在を自然存在の普遍性へ生かすこと―いえ、この世界の根源へと高めようとする願いだと思います。」
(『道−桜仙抄』安達瞳子著より 六輝社)


芸術は、自然と一体になろうとする祈りから始まり、人間の存在をこの世界の根源へと高めようとする願いである、ということですね。
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2009年09月14日

花の器 7

「ただ無造作に取り合わせといっても、どんな組み合わせでもいいというわけではありません。花を生けるときの生命というべきものは、この取り合わせなのですから。花と花器と場所と、この三つが調和していれば、自然とその作品もりっぱなものになるでしょう」
(『花のこころ』山本静山著より)


花と花器と場所、この三つの調和こそが大切であると山本静山さんはおっしゃっています。人々の暮らし方が多様化し、床の間のある住まいは少なくなっています。新たな花の場所が、多様な花の場所が求められている気がします。多様化する暮らし、その中での花の場の提案。これが求められています。
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2009年08月10日

花の器 6

「花を入れるうつわは、ちょっと物足りないくらいがちょうどいい」
(『ベランダにつくる小さな庭 茶の花・野の花』庄司勝子著 淡交社)


東京・銀座 野の花 司、の店主、庄司勝子さんの言葉です。花籠(花の器)をつくるものにとって戒めとなります。

「ちょっと物足りないくらい」ということは、簡素(simple)ということであっても、簡粗ということはないと思います。「よいものをつくろう」という気持ちが強すぎて技術や造形性や自分が出すぎているものは、花の器としてよくない。簡粗もよくない。足りなさすぎても、出すぎでもよくない。そういうスタンスが野の花を生活の中でいける。花の器のそれをつくる者の姿勢であるということですね。
―僕の仕事の目指すところでもあります。

庄司さんのお店の2階には、スペース司という展示スペースがあります。9月にそこで小さな花かご展をさせていただくことになりました。庄司さんにどんな感想をいただけるのか、楽しみです。
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2009年08月03日

花の器 5

「器に許され、認められ、喜んでもらえる花をいけたい。意志があると思わせる器の魔力である」
(『一花一葉』工藤亜美著より)


魔力のある器をつくることができたのなら花をいける人にこんなふうに思ってもらえるのだ。これはひとつのあこがれというか、目標になります。工藤さんのいけばなは僕の仕事とは遠いところにある感じがしますが、工藤さんの言葉は僕の中によく入ってきます。今後も工藤さんの言葉は紹介させていただきたいと思います。
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2009年07月20日

花の器 4

「木や草は、心の言語として大地にちりばめられた人間の記憶。それを文章にして完成させて伝達するための行為の一つが器を選ぶことであり、花をいけること。器は花のよしあしを決める」
(『四季の花手帖』川瀬敏郎著より)

「なげいれの花をいける器に規範はない。さまざまな形、色、素材、質感の中から選ぶ器は、さながら自分の心を映す合わせ鏡のようなもの。花を入れ続ける中で、器はたくさんのことを考えてくれる」
(『花に習う』川瀬敏郎著より)

一つ目の言葉は、花をいけるとき、器は大切であると言っておられますね。二つ目の言葉は、花器を選択する行為は自分の内面と向き合うことだとおっしゃっています。人により選択肢の量は違ってきますが、選べる楽しみも持ちたいですね。

「器から学ぶ」ここは僕の課題です。
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2009年07月06日

花の器 3

「花器の形姿、文様が花材、花型に意外に大きく作用し、いけばなは、花と器から生まれることを実感する」

「花器のイメージと花がどう結びつくか」

「花器を優先して花を考えると、新しい生けばなが生まれるのではないか」

「花の持つ個性、おもしろさをいかすのに無駄を排し、切り捨てる。それが花器をいかし、花をいかすことになる」
(『花語り』辻井博州著より)

辻井さんの言葉からは花器を生かすことに常に意識が向けられていることを感じます。花の器、花籠をつくるものとしてありがたく思います。

ずっと以前、ある人に「どんな籠が花をいけやすいでしょううか、生かせるでしょうか?」と質問したことがあります。その人は「花をいける人は、どんな器でもいけるので、どんな籠でも作りなさい」と言われました。
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2009年06月29日

花の器 2

白州正子さんは花器に関する言葉がいろいろ残っていますので続けます。

「(花器を)自分で育てていい味がつくのを待つほど愉しみなことはない。が。それには10年、20年の我慢が必要だと思う」

「花が先か、器が先かといわれると、私の場合は、どうも器が先立つようである」

「花は器にしたがって生けていれば、自然と形になることを自得した。流儀や約束事とは無縁なところで、私はたのしんでいる」
(『花』白州正子著より)


「花は器にしたがって生けていれば、自然と形になる」と言えるような人だからこそ、言えるのだと思うのですけれど、僕も流儀や約束事にとらわれない所で、楽しくやりたい。

ラベル:白州正子 花器
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2009年06月22日

花の器 1

花の器、花籠をつくっていますので、花道家の方が器についてどのような考えを持たれているのか大変気になります。

白州正子さんの『花日記』(世界文化社1998年)からです。

「花の命はしっかりした器を得て、はじめてそこに静と動、不易と流行の、完全な調和が生まれる。極端なことを言えば、器あっての花なのだ」

「もちろん花をいけるときは、花器が大いに物をいう。私の場合は、花器が師匠であった。器を見たときに、花の形はきまっている」
(『花日記』白州正子著より)

「器あっての花」、ちょっと言いすぎでは?と思ってしまいますが、白州さんの言葉はきっぱりしていますね。
ラベル:花籠 花器
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2009年06月15日

葉の緑 3

岡田わさんの言葉です。

「日本のいけ花の特徴は、花と緑との組み合わせで、いろいろな風情を楽しむことです。(中略)花そのものよりもむしろ、緑の葉を重要な存在とする考えは、植物民族としての、日本人独特の美意識です。緑の葉なしでは、花は語ることも訴えることもむずかしいのです」

「日本人のいけ花ほど緑の中の花の姿を大切にしているものは、世界に類を見ません」
(『花一輪を百輪のごとく』岡田わ著より)

脇役の葉が、主役の花以上に重要な存在である、ということですね。意識するとしないとにかかわらず、人は、そのように葉に対して接しているのですね。
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2009年06月08日

葉の緑 2

新緑の山はそれ自体が美しいですし、葉だけをいけても美しいものです。考えてみれば花だけで存在していたり、花だけでいけるということは普段はあまりありませんね。

「私は枝だけをいけていると生を感じない。葉を使いたい。とりわけ秋には新しい生命を予感させるものである」

「花器のイメージと花がどう結びつくのか。緑の葉を点じた。緑には生命を感じる。緑の葉は、花のビタミンである」
(『花語り』辻井博州著より)

緑は生命を感じさせ、花のビタミンになる。緑がないと花がいききしてこないということですね。
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2009年06月01日

葉の緑 1

新緑の美しい季節ですね。
葉の緑についての言葉です。

「葉の色彩は花以上に饒舌。花の色は本当に豊富になった。色が豊かになれば表現できることが広がる。子供の頃のクレヨンの色数といっしょでワクワクする。どんな色の花にも緑が混じっていて、緑の似合わない花はない。だから緑を介在させていけば、かなり大胆な配色もできる」
(『一花一葉』工藤亜美著より)

絵の勉強をしていた頃、茶色を下地に使うと、絵がまとまりやすい、という人がいたのを思い出しました。緑の葉も同じはたらきをするということですね。
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2009年05月25日

花の力 4

一人一流派を提唱されている岡田わさんの著作『花 一輪を百輪のごとく』の中にも「花の力」に触れた力強い言葉があります。

「根のついたものだけでなく、切り花でも新鮮な花ほど、強い気(生命エネルギー)をもっており、家庭でいける花でも、思いと願いを込めた花ほど、強い気が感じられます」

「花というものは、まことに人の心を踊らせます。人々を若々しくさせる力が花にはあります。しかし、この花は、はかなく、うつろうものであり、けっして永遠のものではなく、そだけに人々は、花の盛りを大切にするのです」

(『花 一輪を百輪のごとく』岡田わ著より)
花は人の心を踊らせ、若々しくさせる、そういう力がありますね。
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2009年05月18日

花の力 3

先回の假屋崎省吾さんの花はまさに花のパワーという感じですが、野の花をいけられる庄司勝子さんも花の力について触れられた言葉があります。『ベランダにつくる小さな庭 茶の花 野の花』からです。

「最近、野の花を生けることが現代の人々にとっても大いなる慰めと癒しを与えてくれることに、とくに都会の人たちは気付きはじめました」

「構えずに、花の声を聞きながら暮らしに野の花を取り入れてみてください。野の恵みはきっと私たちに力を与えてくれるでしょう」

(『ベランダにつくる小さな庭 茶の花 野の花』庄司勝子著より)

花は大いなる慰めと癒しの力があるのですね。
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